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「ピカソは本当に偉いのか?」 [書物]

西岡文彦著 新潮新書

これは面白い!
帯に「目からウロコの芸術論」とありますが、その通りです。

著者は版画家で、多摩美術大学の教授。
先日 テレビで、ピカソ風の絵の描き方を伝授してタレントさんに書かせ、その解説をしているのが大変に楽しかったので、著者の出版物で一番新しいものを、と購入しました。

ピカソの自由奔放な人生と社会の変遷が、とても分かり易く、新鮮な切り口で語られています。

教権、王権、市民、美術館、画商からオークションへと、絵画の求められる場所が変わり、評価の基準も変わってきました。
その移り変わりが、見事に説明されていて、思わず、なるほど!と声を上げてしまうほどでした。

ぜひ読んでいただきたいので、あまりたくさんはご紹介しませんが、

美術館の定義がまずなるほど、でした。
「絵画が美術品に変わるとき」という小見出しのなかの一節です。
『かつての絵画には、そこに描かれたものを通して、人々に何事かを伝達するという社会的なコミュニケーション手段としての機能が備わっていました』(P108)
『美術品それ自体の持つ色や形の美しさや細工の巧みさだけを観賞される対象となってしまったのです』(P109)
『美術館は、博物館と同じミュージアムという言葉の訳語ですから、博物館入りという言葉によって表れる古色蒼然としたニュアンスは、美術館入りという言葉にも含まれています。本章冒頭で、ニューヨーク近代美術館のことを現代美術の「殿堂」と紹介しましたが、「殿堂入り」という言葉なども同様に、そこに入ることが「現役を離れる」ことであるというニュアンスを含んでいます』(P109~110)

美術館は、フランス革命によって成立した市民のための新しい施設でした。
しかし、市民には、飾られている絵の内容がさっぱり分かりません。そこで、美術批評家なるものが登場してきます。

そして、アメリカ人が絵をどんどん買い、また、画商などが価格を操作して、絵の値段をつり上げていきます。

とはいえ、それも時代の流れ。
何が良くて、何が悪い、というものでもないのでしょう。

しかし、著者は、「おわりに」のなかで、最後、こう言っています。
『私は、芸術という「創る」営みの出自が「働く」ことにある以上、それに与えられる評価というものが、人々が額に汗して働くことに不当に優越するものであってはならないと思っています。まして、その報酬が、日々を誠実勤勉に生きる人々の勤労意欲を損なうまでに高騰するのであれば、その社会は明らかに病んでいると思っています。そういう意味では、本書の冒頭にあげた疑問の最後にある「そういう芸術にあれほど高値をつける市場も、どこかおかしいのではないか?」という問いへの私自身の答えは、「おかしい」ということに尽きると思っています』
『伝説によれば、ミダスは、自分が手にした食べ物までが金に変わるのを見て絶望したといいます。その時、彼はどのような表情を浮かべたのでしょう。私は、ピカソの最後の自画像が、このミダス王に見えてなりません』(P190)
『この自画像は、現代芸術にまつわる不当なまでの特権とその高騰を無批判に許容している限り、私たちすべての自画像となる可能性を秘めているように思います』(P191)

著者は、この書物のなかで、決してピカソを批判しているわけではありません。その奔放な姿は、新しい支配層であるブルジョワへの抵抗であったことを社会的背景から説明し、また、ピカソの絵は誰にでも描けるものではないとその力量と筆致のすばらしさを讃えています。

と同時に、現代芸術が辿ってきた道のりと、画家、芸術家、というものへのイメージの定着を、まったくもって健全だった、とは捉えておられないようです。

この著者の最後のメッセージには、深い思いが込められているように感じます。
美術、芸術の世界に留まらず、まさに、私たちが今直面している、社会の不具合と閉塞感についても、同様に当て嵌まると感じる方も多くおられるのではないでしょうか。

ぜひ、ご一読を。

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