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「絶望の国の幸福な若者たち」 [書物]

古市憲寿著 講談社

講談社の本を読むのは久しぶりだ。
以前に、テレビ朝日「朝まで生テレビ」で、古市氏のこの書物をメインにした討論があった。それについてこちらへ書かせていただいているが、そのときには、まだ、この本を読んでいなかった。早く読まなければ、と思いながら、ついにこれほどの時が経ってしまった。
でも、何が書いてあるかは、ほぼ予見できた。なぜなら、古市氏の考え方、疑問の持ち方を、私自身、とてもよく理解できていたからだ。

おかげさまで(?)前回の記事で、荻上チキ氏の書物について、先に書くこととなった。
これは、かえって良かった。
比較することができたからだ。

「朝まで生テレビ」では、田原総一朗氏が、この本を読んでえらく驚いて、新しい世界を垣間見たようなことを声高に言っておられたが、正直、そこまで驚くべきことか?というのが読後感だ。

荻上氏の書物は、私の波動に合わなかった。ところどころ理解し難かったし、その思考の背景は読み取れるものの、私の感覚がはじいてしまって、受け入れられない気持ちが空回りしていた。

荻上氏のような唯物感覚の人からすると、古市氏のような人は、弱々しく見えるかもしれない。じれったく、そして、おまえバカか、黙ってろよ、と言いたくなるのかもしれない。しかし、それも、本当は、自分にないもので、そして尚且つ、そのことが純粋無垢でより精神性の高い思いだと、なんとなく、心のどこかで感じていて、それを認めてしまったら、自分を否定することになる、という直感が、古市氏への暴言となって表れているのだと思われる。

「経済成長なんてあきらめて、慎ましく生きよう、と言い出す人もいる始末。すごく残念な意見のお手本・・・(略)」
「発言している本人は、清貧の思想、を語ることに酔っているのかもしれません」
(荻上チキ「僕らはいつまでダメ出し社会を続けるのか」P16)
う~ん、清貧の思想って、この人、清貧の意味が本気で分かっているか、首を傾げる。やはり、これは、心で考えず、頭で考えていることの証明になった。清貧を本気で心に生きている人というのは(現代社会にいるかは別として)、そんな簡単な人生の道筋ではないだろう。諦めの気持ちややる気のなさから選んだ道とは違う。ましてや、そういった生き方に酔っているわけでもないだろう。なかにはそういった人もいるにはいるが、これについては、もっと多くの言葉を尽くさなければいけない。それはまた別に機会に。


第一章 「若者」の誕生と終焉
1 「若者って誰だろう?」
2 若者論前夜
3 焼け野原からの若者論
4 「一億総中流」と「若者」の誕生
5 そして若者論は続く

第二章 ムラムラする若者たち
1 「内向き」な若者たち
2 社会貢献したい若者たち
3 ガラパゴスな若者たち
4 モノを買わない若者たち
5 「幸せ」な日本の若者たち
6 村々する若者たち

第三章 崩壊する「日本」?
1 ワールドカップ限定国家
2 ナショナリズムという魔法
3 「日本」なんていらない

第四章 「日本」のために立ち上がる若者たち
1 行楽日和に掲げる日の丸
2 お祭り気分のデモ
3 僕たちはいつ立ち上がるのか?
4 革命では変わらない「社会」

第五章 東日本大震災と「想定内」の若者たち
1 ニホンブーム
2 反原発というお祭りの中で
3 災害ディストピア

第六章 絶望の国の幸福な若者たち
1 絶望の国を生きるということ
2 なんとなく幸せな社会
3 僕たちはどこへ向かうのか?

補章 佐藤健(二十二歳、埼玉県)との対話


目次は良くできている。おっと、それは読んだ者だから言えることかもしれない。
それでも、この書籍のタイトルからそれぞれが受け取っていた印象は、正しく修正されたかもしれないし、思った通りだ、という読者の方もおられるだろう。

今の「若者」たちは、どうして、こんなに不遇にされているのに、立ち上がらないのか、と外国人ジャーナリストに問われて、古市氏は、若者と日本について考えはじめたようだ。
昔の若者たちがどうだったか、またそれを論じていた人たちとその歴史については、第一章に詳しい。

いずれにせよ、一般的な若い世代が、お金を持っていないことは確かだ。そのことが、社会の動きをつくっている。例えば、地元に帰る若者が増えたのも、結局は、親のお金を当てにしてのことでもある、と著者は分析する。

『若者たちは、今を「幸せ」と感じている』
『一方で、生活に不安を感じている若者の数も同じくらい高い。そして社会に対する満足度や将来に対する希望を持つ若者の割合は低い』
『もはや自分がこれ以上幸せになると思えないとき、人は「今の生活が幸せだ」と答えるしかない(元京都大学教授の大澤真幸)』(P102)
その通りかもしれない。今が不幸だと思うということは、将来きっと幸せになれるという希望があるがゆえ、とは、なるほど、と頷いてしまう。まさに、高度経済成長期、だ。

ワールドカップサッカーの試合のあと、渋谷にフィールドワークに行った著者が見た若者たちの姿、いっときの熱狂と、そのあとのなんともさっぱりとした様子、そこにナショナリズムのなんたるかを著者は見る、
『戦争が起こったとしてもさっさと逃げ出すつもりでいる。そんな若者が増えているならば、それは少なくとも「態度」としては、非常に好ましいことだと僕は思う。国家間の戦争が起こる可能性が、少しでも減るという意味において』(P153)
同感だ。
しかし、自民党の復活で、自衛隊が軍として定義され、この若者たちも徴兵という義務を課されることとなるのだろうか。そうなれば、国家と言うものに縛られて、逃げ出すことは不可能だろう。どうしても反発すれば、逮捕される。そんな世の中は、ぜひとも避けたいものだが。
戦いたくない、という思いは、心がひ弱になったからではなく、心のレベルが上がることによって野蛮な行動とは波長が合わなくなっていくからだ。それを無理やり、昔に戻そうとしても、うまくいかないし、むしろ魂を混乱させてしまう結果となる。それは悲劇だ。映画のストーリーにはなり得るかもしれないが、そんな悲劇は芸術でもなんでもない。

『たとえば、社会に不満を抱いている人がいるとする。彼にとってもっとも嬉しいのは、誰かが社会を変えてくれて、自分がそれに「ただ乗り」することである。そうすれば、自分では何をすることもなく、良い社会を生きることができる』(P173)
『とりあえず「お祭り」に参加することを促す社会運動が最近の流行になっている』(P174)
若者たちも、何もしていないわけではないようだ。特に震災後は、脱原発へのデモなどもある。その集会も、ライブや様々フェスティバルのような形になっていて、楽しめるスタイルになっている。気軽に参加して楽しむ、という人も多く、そこで仲間を見つけたり、そこを居場所とする、というような人もいるとか。もちろん、古参の集まる社会運動もあるので、そんなデモに参加すると、ちょっと面食らう若者もいる、と著者はインタビューの内容をまとめている。

『多くの集団は、オウム真理教のように暴走してしまう前に、ただの「居場所」になってしまう、というのが僕の見立てだ』(P184)
『僕は、かつてピースボートに乗船する若者を対象とした研究で、「共同性」が「目的性」を「冷却」させると結論した。つまり、集団としてある目的のために頑張っているように見える人々も、結局はそこが居場所化してしまい、当初の目的をあきらめてしまうのではないか、ということだ』(P186)
そもそも社会を変えるってなんだ?と著者は問う。
『「革命」は「社会を変える」ことの起点にはなるが、あくまでも起点に過ぎないのである』(P189)
だけど社会は変えられる。
『「社会を変える」ための方策にいくつもの形がある』
『市議会議員になって街の条例を変えてもいい。社会的企業家になって社会貢献事業を行なってもいい。官僚になって、どうしようもない法律の改正に一生を賭けてもいい。政治に口を挟めるくらいの大資本家を目指してもいい。NGOのような非政府主体の一員として、国際条約を成立させることも夢じゃない時代だ』(P190)

ボランティア団体の創設者たちは、その設立目的に、日常の閉塞感を上げているそうだ。彼らには、非日常が必要なのだろうと、著者は言う。
『現代の若者たちは、「今、ここ」に生きる生活に満足しながら、同時にどこか変わらない毎日に閉塞感を感じている』
『言葉は乱暴だが、社会志向の若者にとって今回の震災は待ち望んでいた事件とさえ言える』(P202)
少し話しは飛躍するが、よく海外にボランティア活動に出て行く人たちがいるが、少し前に人質事件で話題になったが、あのときに、どうして外国なの?と思った人も多くいた。私も、そういえばと、ふと思った記憶がある。もちろん、日本は戦後、先進国、経済大国となって、とても豊かになった。私たちは、発展途上の国や戦渦にある国々の人たち、とくに子供たちに較べたら、ずっと幸せに、何不自由なく暮らしている。しかし、日本にも、差し延べられる手を待っている人たち、子供たちはいる。人だけでなく、実は社会自体が病んでいるということもある。日本人なのに、その日本を通り越してなぜ海外?
その理由のひとつが、古市氏が分析するところの「閉塞感」なのかな、と納得した。と同時に、非日常を求めて、より自分の存在感を感じて満足したり、世界の動きのなかで高揚感や喜びを感じるのかもしれない。それは、日本の小さな社会、日常生活のなかでは感じることのできないものなのだろう、ということは十分に理解できる。

震災後、変わった変わったと言論人や知識人たちが言うが、本当に何かが変わったのか?
『結局は「終わりなき日常」』(P215)
3.11も、西日本では、まるで外国の出来事のような受け止め方だったし、
『ほとんどの場所でほとんどの人は、地震後一ヶ月を待たずに同じ生活に戻ったのではないだろうか』(P216)
『人は自分がリアルタイムで経験した事件を過大評価しがちである』(P217)
『「事件」は、一瞬世界に光を照らす。今まで多くの人が見ていなかったもの、見ようとしなかったものを、白日の下にさらす。その意味で、3.11は確かに日本社会が抱える様々な問題を、あまりにもわかりやすい形で僕らの目の前に提示して見せた』(P218)
リーダーの不在、硬直化した官僚組織の弊害、中央と地方の関係などなど、日本が以前から抱えていた爆弾、さらに保守派老人たちの残念さ(天罰発言など)、と著者は言う。
まったく同感だが、私は古市氏よりも、より深刻に捉えている。
とくに原発事故によって、原子力という手に負えない代物とそこで行なわれていた権力とそれにすがる人々の構図、神話と言う名の騙しのテクニックと洗脳、政治家と官僚のあくなき欲望と自己保存欲、といった日本社会の縮図のような仕組みが明瞭化したにもかかわらず、結局、それらが温存されることとなったその流れは、なんともいまいましい限りだ。
しかし、『結局は「終わりなき日常」』となっていくこととなるのか。古市氏も、今後を見守るしかないと言っているが、自民党の復活が、『結局は「終わりなき日常」』を物語っていくこととなるのかもしれない。
『3.11後も変わらない「原子力ムラの人々」がいる』(P222)

団塊の世代になりたいか?
『彼らのおかげか、時代のおかげか、ただラッキーなだけか、現代日本は歴史上未曾有の「豊かさ」の中にあると言っていい』
『僕はいくら「一億円トクする(年金・医療などの社会保障費)」と言われても、団塊の世代にはなりたくない』(P234)
これも同感できる。
今の暮らしから見れば、まったくもって不便だし、今よりもっと精神的な閉塞感がきつかったかもしれない。世間体とか・・・生き方の選択肢も少なかった、いや、今も同じか。

「若者の〇〇離れ。人は基本的には、お金があればいらないものでも買いたくなる生き物でしょう。今は物が余っているので、僕も〇〇離れと分析された口ですが、お金はもらえるなら欲しいです。お金もそんなにいらない、と言っている人は、ぜひ、冬幻社経由で僕に送ってください。今起きているのは、若者の〇〇離れではなく、カネの若者離れ、なのです」これは誰の言葉でしょう。口調と波動から、古市氏でないことは、すでにこれをお読みの皆様なら直ぐにお分かりかと思う。そう、荻上チキ氏の発言だ(「僕らはいつまで・・」P62)。
ごもっとも、と私も思う。この世界で生きていくには、お金が必要なのだ。お金がないと生きていけない、そういうルールになっている。様々な評価が、お金に換算されている。その評価基準は、唯物的ではあるが。
しかし、何か違和感がある。根底に流れる思いの基本形が、何とも波動が低く、自己中心的、と言うよりも、反抗的にすら感じる。何に反抗?ピュアな精神に、かもしれない。
さらに荻上氏は言う。脱成長という言葉を想像するとき、昔はみんなお金がなくても幸せに暮らしていた、といった想いが念頭にあると思うが、それは、ALWAYS3丁目の夕陽シンドロームだ。脱成長というフレーズを好んで使う人は、経済成長ばかりを追い求めてきた社会というのは・・・と言うが、これは、圧倒的な歴史認識の誤解が根底にある、と。
さらに、脱成長という言葉には、競争をやめて、みんなで分け合う温かい社会を目指しましょう、という牧歌的なニュアンスが巧みに含まれていると感じるが、脱成長が起これば、まったく逆の社会が訪れる、と。(P72~73より抜粋)
『バブル崩壊後の若者たちは望む望まざるにかかわらず、相対的に自由な人生を送ることができるようになった』(「絶望の国の幸福な若者たち」古市憲寿P236)

どうでしょう。
感想とご判断は、読者の皆様にお任せします。

『統計的に見ても、日本では他国に較べて政治的無力感が強い』(P237)
『もしかしたら、若者たちはあまりにも社会志向・他人志向すぎて、「自分たち」の問題ある政治には興味がないのかもしれない。カンボジアに学校は作るし、アフリカ援助には必死になれても、「自分」の所属する地方自治体で何かアクションを起こそうとは思わないのだから』(P238)
これは、上記の海外にボランティアに出かける若者たちの動機につながるものがあるだろうか。

『(略)それでもなお、「高齢者」世代を糾弾することはできる。国民主義を掲げる議会制民主主義の国で、「高齢者」世代が投票を重ねてきた結果が「これ」だと』(P240)
『(略)その絶望的な未来を、より長く生きていかなくちゃいけないのは、若者や子どもたちであることも間違いない』(P242)

さらに古市氏は、幸せの条件を2つに分ける。経済的な問題と承認の問題。つまりお金があるかどうかと、誰か自分を認めてくれる人がいるかどうか、だ。人は、誰かひとりのために生きることができる、とは昔からよく言われる究極的幸福論だが、恋人の存在は、手っ取り早い幸せの条件かもしれない。恋人以外には、家族の存在もあるだろう。家族については、経済的問題とのかかわりも大きい。
と同時に、今は、インターネットによるつながり、個人のマスメディア感覚が、承認による幸福感の形を変えた。お手軽な承認社会、と著者は評する。

結局著者は、何だかんだと言って、やっぱり、若者たちは、幸せなんだ、と結論づけているし、実際そうなのだろう。
その反面、日本の社会の失敗をも認めている。

『どんな場所に生まれても、どんな家に生まれても「ナンバーワン」を目指すことができる「近代」という時代が、いよいよ臨界点に達した』(P258)
『民主主義を犠牲にして経済成長を選んだことにより、世界有数の経済大国となった日本』
『ヨーロッパとは違う「近代化」を歩んできた日本で、即席で参考にできるような国は、もうない』(P259)

『戦後の経済成長は、日本を民主主義陣営に留めておこうとするアメリカの対日政策、豊富な若年労働力を活用できる人口ボーナス、敗戦によって経済後進国になったため他国のマネをすればよかったことなど、いくつものラッキーが重なって可能になったことだ』
『「あの頃」には戻れない。だけど同時に、僕たちは、「あの頃」の人々が憧れた未来に生きている』(P263)

『何かあると「日本が終わる」とか「日本が崩壊する」と言い出す人がいる。だが、「日本が終わる」とはどのような状態を指すのだろうか』(P265)
経済破綻?社会保障が大きく削減?公共サービスの低下?
そうなっても、日本国民が死に絶えてしまうわけではない。失業率が上がっても、硬直化した雇用制度が崩れて、若者たちは、中国やインドに出稼ぎに行くかもしれない。
外国からの軍事的侵略?
『政府が「戦争始めます」と言っても、みんなで逃げちゃえば戦争にならないと思う。もっと言えば、戦争が起こって、「日本」という国が負けても、かつて「日本」だった国土に生きる人々が生き残るのならば、僕はそれでいいと思っている』
『国家の存続よりも、国家の歴史よりも、国家の名誉よりも、大切なのは一人一人がいかに生きられるか、ということのはずである』
『一人一人がより幸せに生きられるなら「日本」は守られるべきだが、そうでないならば別に「日本」にこだわる必要はない。だから、僕には「日本が終わる」と焦る人の気持ちがわからないし、「日本が終わる?だから何?」と思ってしまうのだ』(P267~268)

絶望の国の、幸福な「若者」として、なんとなく幸せで不安な時代を僕たちは生きていく。

概ね私は、この古市氏の思想に賛同するし、また、彼の気持ちがよく分かる。気持ちが分かるなどと言っては失礼かもしれないが。
荻上氏には、理解不能だろうし、また、残念な老人たちからすれば、なんとも覇気のない、どうしようもない若者たち、と一刀両断だろう。どうしてこんな若者たちが育ったんだ、と。
なにをおっしゃいます。あなたたちが、育てたのですよ。でも、良かったですよ。だって、戦争はぜったいにいけないことですから。

こういった、いわゆる愛国心のないような若者たちの考え方に、田原氏は衝撃を覚えたのかもしれない。そして、新しい、と、確かそのとき、表現していたと記憶している。それは正しい感覚だった。しかし、討論のなかで、次第に田原氏の気持ちは変化していき、他のパネラーたち(若いのに)と同調して、古市氏を責め始めた、というのが、冒頭で触れた「朝まで生テレビ」を見たときの私の印象だ。

おそらく、古市が言うように、国会の存続よりもひとりひとりがどう生きるか、とか、日本が終わるからって何?という感覚に、荻上氏や田原氏は、国なくてどうして生きていくのか、ひとりひとりより国だろう、と食って掛かるだろう。

これは、大きなひとつの国家論となるだろう。
プラトンの著書に「国家」がある。
なかには、軍隊の必要性の話もしっかりあるが、当時のギリシャの形を見れば、それも分かる話だ。だが、国家があって市民がいるのではなく、市民があって、そこから国家が形成されていくことが述べられている。そして、ひとつの国家をつくるための、リーダーの資質について、国家体制について、事細かく論じて(対話して)いるのだが、それらは、どちらかと言えば、古市氏の感覚に近いと思う。

答えはひとつではないだろう。
しかし、目指すべき方向は、古代ギリシャの時代から示されていたのであり、また、政治家や社会、市民の有り様は、言ってみれば、残念ながら、当時の問題点がいまだ解決されていないと言えよう。

マヤ暦によれば、ひとつの時代の周期が終わったと言われる今、新しい世界へ向けて、新しい感覚が主流となっていくことだろう、と肯定的に捉えたい。
断言できない理由は、それは私たち一人一人次第、だからだ。

記事のなかで荻上氏や田原氏について述べている部分は、私個人の感想ですので、ご了承ください。

最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。

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