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「メディアの罠」 権力に加担する新聞・テレビの深層 [書物]

産学社
青木 理×神保哲生×高田昌幸

9月4日の記事でご紹介した、玉川徹さんの著書「ニッポンの踏み絵」同様、選挙の前に読んで十分に参考になる一冊です。
別の仕事に集中しなければならず、読書を中断していたので、ご紹介が遅れました。

現在はフリージャーナリストとなって活躍しておられる上記お三方による鼎談集

第一部 崩壊する大メディア
第二部 福島原発事故と報道

青木さんと神保さんは、TBS「ニュース探究ラジオDig」のパーソナリティやニュースワイドショーのコメンテーターとしても、私には御馴染みの誠実改革派ジャーナリストである。
失礼ながら、高田さんは、存じ上げなかった。元北海道新聞の記者ということ。
この本によれば、北海道新聞は、より正しいジャーナリズムの精神に基づいた取材と報道をしている新聞だということ。北海道新聞に限らず、地方新聞のほうが、大手メディアよりも独自の取材に基づく良い報道が多いとか。

インターネットの時代になって、報道の形も変わりつつある。
インターネットのほうがより真実を伝えている、というのが昨今ではあるが、その反面、ネットのほうが、故意に悪意のある報道もある。

私たちは、メディアの誠実性については常に疑いを持ちながらも、それなりに受け止めてきた。しかし、昨年の震災、否、原発事故という未曾有の災難と出会った私たちは、国、企業、メディアの不誠実さを、はっきりと知ることとなった。不誠実どころか、嘘と騙し、を。

思い返せば、寂聴さんもおっしゃっていたように、戦時中も全く同様のことを日本人は権力サイドからされていたのだ。

「記者が権力のなかに入っちゃってる」(P103)

「記者クラブ詰めの記者は、ほとんど官僚と同じような環境のなかで毎日過ごし、一日に何回も官僚の説明を受けているので、思考方法や発想がどうしても官僚と似てくるんですね。それが結果的に、メディアが政府の単なる代弁者になる原因を作っている」(P109)
政治家も同様でしょう。ゆえに、政権を取ったとたん、大臣になったとたん、総理になったとたん、官僚化してしまうのは、もっと言えば、洗脳されてしまう理由は、これだろう。

最近は、取材力も落ちている、と彼らは話す。
とは言っても、ネットメディアに較べれば、大手新聞やテレビ局は、取材方法も手段もしっかりと確立されているので、それを次世代につなげていくことは大事だ、とのこと。ここまで成長するには、厖大な時間とお金がかかるのだから。

何と言っても、やはり、原発報道の滅茶苦茶は、ひどいものだった。
しかし、そのお陰様で、私たちは、ある種の目覚め、を得ることができたと言ってもよいだろう。
この世でのあらゆる現象、出来事は、必ず意味を持っており、私たちに何かを訴えかけ、知らせ、教えようとしてくれるものだ。

電力会社の発表することも、政府の言うことも、私たちはもう誰も信じていない、と言っても過言ではない。それほどまでに、彼らは信用を失っている。が、それにも拘らず、国民は、彼らに替わるものを選ぶこともできない。
政治家は選挙で選べるが、それもまた、メディアの絡んだ策略によって誘導されたりもする。

「福島原発で起きた大人災をめぐる取材と報道は、戦後の日本メディアにとって、前代未聞の大敗北を喫したものだったというべきでしょう。取材のあり方からはじまって、報道の内容に至るまで、発生から長きにわたって無残な、大本営発表報道、に終始し、当局や東電の嘘とごまかしを垂れ流してしまった」(P194)
「昨今の新聞やテレビは、官僚化と硬直化が極まり、安全運転と自己規制の固まりみたいになってしまっている」(P198)
「総務省は、インターネット上の流言飛語を取り締まる目的で、インターネット事業者に対し、流言飛語があった場合、削除要請を行なうとの方針を決めました。こうした姿勢に対し、大手メディアが真正面から疑義を唱えた形跡はありません。情報統制、検閲の見本のような話です」(P202)
「この間の報道の迷走によって、相当数の人々が被曝してしまいました」(p204)

国民がパニックになるから、と言って、真実を伝えなかった権力者たちとメディア。これは大した上から目線であると同時に、実は、パニックになっていたのは、権力者たちだった、とのこと。これをエリートパニック、と呼ぶそうだ。

「メディアの役割は何か。一般の人々が知りえない事実を、本来は知っておかねばならない情報を、取材によって丹念に掴み取り、広く伝えることです」(P217)
「基本的に有事扱いだったので、政府の意に反する報道は控えようという空気が3・11直後は少なからずありました」(P220)

当時、アメリカは80キロ圏内からの避難を自国民に促し、多くの外国人が、自国からの情報によって日本を離れた、ということを私たちは知っている。
しかしその後、危険区域に入って率先して取材したのもまた、外国人記者たちだった。
日本の記者たちは、上司の許可が下りず、取材に入れなかったそうだ。
同時に、メディア関係の家族たちこそ、すぐさま東京を離れたという実しやかな話もある。
取材によって、恐ろしい情報が彼らのもとにはいち早く入っていたことは確かだ。テレビ朝日の玉川徹さんも、学者などへの取材から情報を得、しかもその情報をテレビで言ってはいけないことになっているなか、自分自身も逃げようかどうしようか酷く迷った、というようなことを著書に綴っている。

「日本の大メディアにとって、やっぱり原発はタブーだったのは間違いないと思います。電力会社がメディアにもたらす広告料収入は莫大なものです。原発に関連する企業や団体からの広告収入も含めれば、ものすごい額に達するでしょう。特にテレビは、電力会社から露骨な恫喝を受けたケースをいくつも聞いたことがあります。地方のローカル局などでは、それが顕著だったようです」(P245)

さらに振り返って、原発黎明期、導入の過程をしっかりとメディアは報道してきたのかどうか、を検証している。
もちろん、できていなかった。
「原発が導入されていく過程では、政界、官界、財界、学界、そしてメディア企業もその一角に深く関わってきました」(P270)
「どこかで原発はエネルギー政策ではなく、単なる利権になってしまったんですね。単に、公共事業として原発を守っていくことが選挙対策にある。ただの利権。ダムや道路と一緒なんですよ。本当は、原発なんて誰でもいやなんだから、利権という蜜がないと、反対する地元を説き伏せて、立地することもままならい。結局、どんどん札束をバラまく形になって、気がついたらエネルギー問題はそっちのけで、利権の部分だけが広がっていった。利権構造だからこそ、増設はどんどん進み、止まらなかった」(P272)

正力、中曽根、そして、田中角栄、と、原発利権は進んでいった。
最初は嫌がっていた地元も、次第にお金の魔力には勝てなくなっていく。過疎地を選んで、豊かな生活とお金を餌に釣ってくるのだから、どうにもならない。
原発がくるのだ、ということを全く知らされないままに、話が進んでいった地域もあったようだ。聞くに堪えない買収行為もあったそうだ。
でも、その後、電力会社はとっても優しかった。これが欲しい、あれが欲しい、これを直して欲しい、と地元民が頼むと何でもやってくれた。
雇用もあり、また電力会社への就職は、子供たちの憧れとなる。

「中曽根氏のようなタカ派にとっても、あるいは田中角栄氏のようなバラまき型の政治家にとっても、極めて便利なツールだったわけです。いわば、旧来の自民党的なシステムが集中的に表象された巨大装置だったといえるかもしれません」(P274)
「原子力発電を推し進めるにあたって中曽根氏の頭の中には、間違いなく、核オプション(核武装)、という思惑があったはずです」(P273)

「川俣や飯館はなんにも恩恵を受けていなかったからね。なんの利権も補助金ももらっていないのに、いったん事故が起きると、負の遺産しか残らない地域にまで放射能が飛散してしまう。これが原発なわけです」(P276)
「電源開発だ、国策だ、高度成長の礎だ、地域発展のためだ・・・・。言い方はいろいろあるでしょうが。でも、結局、カネです」(P277)

原発事故により、私たちは、ようやく、原発の何たるかを知り得た。そして、問題意識を持ち始めた。

メディアもまた、その報道方法を巡って、そのあり方を見直し始めた。大きな組織は官僚化しているので全く気付いていないか、無視しているかもしれないが。

そして、私も、こちらで何度も繰り返して申し訳ないとは思うが、この原子力発電所の事故によって浮かび上がってきた、企業と社会の仕組みのありように大きな疑問を投げかけるのである。
そして、この震災と事故は、社会変革の大きなチャンスである、と私は言い続けた。ここで浮き上がってきた社会の仕組みの問題は、日本社会の縮図であり、日本が行なってきた政治の悪癖の縮図なので、ここを変えることで、様々なところで変化が起こらざるを得ないだろう、と。ゆえに、これは、大チャンスである、と。
郵政を民営化すれば全てばら色、というのとは違う。しかし、社会の仕組み、構造を思い切り変えるということは、別の部分、あるいは、根本的な所を変える必要が出てくるので、おそらく、どどどどど~っと、土台からの変革が始まるはずだ。
しかしまた、ここのお三方は、それを、戦後の日本人、昨日まで敵だったアメリカを受け入れて、どっとそちらへと風がなびいていったその状況、そういった日本人の習性をよくないことと捉えているようだ。
そこは、私は少し違う。良い方向へどっと変わっていくのは、良い事だ。戦後だって、アメリカ軍は占領軍だったが、明らかに普通の日本人たちを、権力の奴隷から解放してくれたはずだ。そして、日本は発展、躍進した。
そのときは、変化に対する邪魔立てがなかった。しかし、今はある。ゆえに、メディアの力は大きいのであり、また、責任がある、と言えよう。

「福島原発の事故は、メディアのその構造そのものを問うていると思います。だから、大メディアを含めた原発推進の輪が、本格的な検証もされずに終わっていいわけがない。大メディアが、このまま平時の、つまり事故前の取材体制に戻り、日々の出来事を追うだけの仕事に戻ったら、過去の報道の検証はいつ、どこでやるのかな、と。本当は、今がその最大のチャンスだと思うんですね」(P306)
「原子力発電所という問題って、この社会の有り様の根本にも関わるテーマだと思うんです。(略)このような社会を、僕たちはこれからも続けるのか、それとも脱却の道を真摯に模索していくのか。エネルギー政策について言えば、電力会社の地域独占体制や発送電の分離を含めた見直しを行い、小規模な発電システムに切り替え、利益も弊害も各地に分散していくようなシステムを構築すべきでしょう。そうした見直しは、旧来型の日本社会の有り様そのものの見直しにも繋がります」(P307)

「保守化、官僚化して頑迷固陋な組織の間隙を縫って、社の内外で何とかいい記事を発信しようともがいている記者を僕は幾人も知っています。テレビ局でいえば、プロデューサーらにもいるし、出版者でいえば編集者にもいる。そういう人が、一人でも増えていってほしい。つまるところ、そうした人々の真摯な努力という小さな積み重ねでしかメディアは変わり得ないと思います」(P315)
「玉石混交のなかには、少ないけれども、玉、はある」(P316)

『一人でも増えていってほしい。つまりところ、そうした人々の真摯な努力という小さな積み重ねでしかメディアは変わり得ない』
これは、政治、日本国のあり方、にもしっかり当て嵌まる言葉だ。

一気には変わらないかもしれない。けれども、ひとりひとりの気付きと、その積み重ねによって気付いていく人々が増えることで、これは、あるとき、突然のように、変わるだろう。
積み重ねは、一気でもなければ、突然でもない。一歩一歩であり、時に後退しているかのように見えることもある。
しかし、しかしだ。その時は、突然やってくる。
人の気持ちは、その容量が増え、割合が増えると、ある一定の量を超えると、一気に進む。それは、人の気持ちに限らず、様々なところで見かけることであろう。また、真理だ。宇宙の法則だ。

最後に、次を付け加える。
「大量に排出される放射性廃棄物を何万年も保管しつづけなければならないなどというのは、まるでブラックジョークのような夢物語ですから、処分場が決まらないのも当然の話です」
「なのに、僕を含め、ほとんどの人はそれを見て見ぬ振りをしてきました。このまま進んでいくと、いつか、どこかで、カタストロフが起きてしまうかもしれない、そう思いながら、見て見ぬ振りを決め込んで宴を繰り広げてきたわけです。こういう問題って、原発に限らず、あちこちに転がっているように思います」(P307~308)

核ゴミが出る限り、それをコントロールできないのなら、原子力発電でエネルギーをつくるべきではない、ということと、そのことへの私たちの心の態度、それは、あらゆるところで同じことをしているのだ、ということを忘れてはならない。

政治が、3・11以前に戻ろうとしている今、私たちは、あらためて、考え、そして、責任を持って選択していくという心積もりをしていくことが大事ではないか、と思われる。
ひとりひとりから始まるのだから。

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「ニッポンの踏み絵」~官僚支配を駆逐する五つの改革~ [書物]

玉川徹著 幻冬舎新書

玉川氏は、現在は、朝のニュースワイドショー「モーニングバード」で、木曜日の時事問題コーナー「そもそも総研 たまペディア」を担当しているテレビ朝日のディレクターさんです。

こちらでも、著書「玉川徹のちょっと待った!総研」などをすでにご紹介しています。

日本の改革、未来のために、ここまできっぱりと発言してくれる、フリーランスでないジャーナリストは、いないのではないでしょうか。
玉川さんほどの発言をすると、注意を受けたり、取材できないようにされたりするのが、この世界の常識、らしいので。
現に、ジャーナリスト仲間からは、大丈夫?と声を掛けられることもあるとか。

さて、今回、早速この書物をご紹介したかったのは「選挙」が近いからです。
今年なかったとしても、来年には、必ずあります。
選挙の前に、ぜひ、一読されることをお勧めします。

私たち日本人は、政権交代を経験し、大きな期待を抱きました。
しかし、その期待はものの見事に裏切られました。

玉川氏も言っていますが、政権交代が間違っていたわけではありません。
自民党の一党独裁で、ず~っとず~っとやってきて、政官業は、腐敗しきっていました、否、います。
民主党の志と国民の思いは、当時、正しい選択をしました。
しかし。。。。。。。。。

政治家が官僚支配を脱却することのできない理由も、これを読むとよく分かります。

官僚がどれだけ保身ばかりを考えて日々生きているのか、責任を取らなくて良い仕事をしているのか、子供の頃から、自分の年金と住宅のこと、そして威張ることばかり考えて、勉強して、東大に入って、公務員試験を受けてきた人たちなのだな、ということがよく分かります。

しかし、そんななかにも一部、正気の人たちがいます。
その人たちと手を組んで、しがらみのない政治家とともに、改革していくこは可能です。
できるのにしていないだけです。そして、猛反発する官僚と古参の政治屋、そして、メディアにつぶされているだけです。

この書物の帯には、
『「エセ改革者」に騙されるな!』
『既得権者を一発で見抜く』
日本の閉塞を打ち破る5つの重大論点
踏み絵1)国会議員を美味しくない職業にするには?
踏み絵2)なくすべき公務員の最大の役得とは?
踏み絵3)年金破綻を回避する秘策とは?
踏み絵4)たれながし財政赤字に歯止めをかけるには?
踏み絵5)原発不安と決別するには?
とあります。

1)国会議員の歳費は700万円とする。文書通信交通滞在費は清算のうえ全面公開とする。これを選挙の踏み絵としたい。議員歳費700万円。それでも名誉と社会のために、国会議員として身をささげようという者たちの勇姿が国会の議場にあふれる日を、私は待ちたいと思う。(P69より)

2)官僚たちと対峙できる国会議員をえり分ける基準としての踏み絵は「公務員宿舎制度を廃止する」としたい。この踏み絵が踏めないようでは、天下りや業界支配などの他の官僚既得権と戦っていくこともできないだろう。まさに官僚改革ができるかどうかの試金石となる「踏み絵」だと私は思う。(P108~109 より)

3)真に持続可能な年金制度を実現する政治家を見分けるためには、「年金は清算事業団スキームで再生させる」という踏み絵がふさわしいと私は考えている。(P141)

4)財政健全化という使命を達成する政治家を見分けるために、必要な踏み絵は「公的支出にGDPキャップを設ける」としたい。(P180)

5)・・・(略)・・選挙から最短で3年以内の原発0は可能だと思われる。そこで踏み絵は「稼動原発を3年以内に0にする」としたい。(P236)


ここで、私が、簡単に全ての内容をまとめてお伝えすることは不可能です。
ですので、少しだけ、内容を噛み砕きます。
あくまでも、ぜひとも、この本を皆様には読んでいただきたい、その導入になれば、という観点からです。

1)
玉川「でも、多分ですね、歳費を切れ、とかそういうことを言うと、政治家のなり手がいなくなるとか、優秀な人間が政治家にならなくなるとか、それから金持ちしかならなくなるとか。必ずこういうふうな話が出てくるのですが。これについてはどうですか。
河村たかし名古屋市長「真逆ですわ」
玉川「真逆?」
河村「そう、真逆。じゃあ世界中金持ちばっかりですか議員は?真逆ですよ!」
『政治家はボランティアでいいという彼の主張は、拝聴に値すると私は感じている。彼の主張によれば、政治家の待遇がいいと長く続けること自体が目的化し、公約すら捻じ曲げてしまう。そればかりか、やがては稼業化し世襲につながるのだという。逆に待遇が悪いと金銭的に長く続けるのが難しくなるので、結果的に議員の新陳代謝が活発になる。金を求めるのではなく名誉を求める者の中から、優秀な人材が集まるという。そんなうまい話はあるかと現職の議員たちの叫び声が聞こえそうだが、この説は実は私の考えに近い』。(P62~64)

2)
役得、既得権への官僚たちの執着力のすさまじさと、彼らの人生については、ぜひ、この本をお読みください。プラス、10年以上に渡る玉川氏の取材力すさまじさも、よく分かります。
『もちろん、がん細胞を正常細胞に戻すように官僚が変わるのが一番だが、そんな特効薬などない。慈善の策は、前章の踏み絵を通して選ばれたような政治家が、国の支配権を官僚から取り上げることだ。それができる国会議員とは、官僚の既得権を取り上げる勇気を持つ者であり、その既得権の最たるものが公務員宿舎制度である』(P108)

3)
年金制度の立て直しについては、少し複雑な説明もありますが、ぜひ、読んでください。
玉川氏曰く、もともとは積み立て式だったはずの年金を、官僚たちが、どんどん無駄遣いしてしまい、なくなってしまったので、賦課方式なのだと説明を始めたのが年金問題が発覚してからだ、ということです。そして、自分たちの年金だけは守っている。他のお金は他人のお金なので、ジャブジャブ使える、否、使ってしまった、というわけです。いずれにしても、立て直さないことには、どうにもなりませんので、その方法が、鈴木亘学習院大学教授の案によって説明されています。

4)
以前にも書かせていただいたと思いますが、オーストラリアの抜本改革、財政健全化の成功例を取り上げています。玉川氏は、改革時の元首相二人、ボブ・ホーク氏とポール・キーティング氏、さらに、当時の抵抗勢力である官僚にも、インタビューをしています。
「面白いことに、悪役をやっつけていると、次第に彼らは私の後ろにつくようになりました。抵抗するというやり方がうまくいかないと気づいたからです」(P162・キーティング氏)
「リーダーが正直に問題を打ち明ければ、国民はそれを理解します。政治的リーダーに大切なのは国民に対する善良さです。そのような資質を持ったリーダーが、国家には50年に一人は必要なのです」(P163・同上)
『ひるがえって日本の政治指導者をみると、どうも日本人全体のためを思っているように見えない場合が多い。自らの保身をはじめ、経済界の利益や官僚たちの思惑、支持者の都合といった一部の人々のために行動しているのが、透けて見えてしまう。一部の人とは、言い換えれば既得権者と言ってもいい』(P164)
『政権交代自体が悪かったのではないということだ。ある種の開発独裁体制のような自民党一等支配と実質的官僚支配は、すでに淀みに淀んでいた。政権と既得権者の癒着を剥がさなければいけなかったのは、間違いない。ただ、この国の残り時間を考えると、返す返す惜しい。しかし、それはもう過ぎたことだ。まだ、時間はある。改革を進めるしかない。成功例に学ぶのだ』(P165)
『2012年夏現在、野田首相は消費税増税に政治生命をかける意気込んでいる。しかし、今のままの予算策定システムと官僚支配が続くのでは、増税分が国民の利益にならない事業へ回される割合が高まるだけだ』(P179)

ここで紹介されている「キャップ制」については、本を読んでください。
私なりの簡単な解釈ですが、予算を各省であれこれ出して積み上げていくのではなく、最初に予算を決めて、そこに当てはめていく。足りない分は、優先順位の低いものから切っていく。ゾンビ復活に終わった事業仕分けを、各自でやらせる、さらには、他省からも指摘させる、ということのようです。
私も以前にどこかで書きました。入ってきた税金を予算に振り分けていくという形にすることはできないのかな、と。哲学は同じだと思います。

5)
これについては、今更言うまでもないことと思います。
玉川「経産省が産業界の言うことを聞くというのはある程度分かるんですが、その産業界って福島の事故を見ても原発の危険性を認識できないんですかね」
元官僚「そうでしょうね」
玉川「なぜなんでしょう」
元官僚「そこは目先の利益でしょう。企業にとっては、土日操業して、従業員を働かせてコストを払うということをするぐらいなら、やっぱり手っ取り早く原発を動かしてもらった方がいい。再稼動についても、一部の人の言い方をすると、この一年だんだん少なくなってきたけれども、原発は動いてきたでしょ。たまたま定期検査ということで止まってきてるけど、動かしてきたのは事実じゃないか、と」
玉川「たしかに今まで動いてはきたけど、地震がなかったのはただの幸運に過ぎないと思うんですが」
元官僚「動かしたい人からすれば、その幸運はこれからも続くんじゃないかということですね」
玉川「それって3・11前と同じ精神構造ですよね」
(P231~232より抜粋)

原発は、止まっていれば安全というわけではありません。しかし、何かあったときには、稼働中よりはまだなんとかなるし、手当てをする余裕もある、ということです。
そして何より、稼動すれば、核廃棄物、放射性物質が、どんどん生成されていきます。それは、200種類を越えるそうです。
『核兵器が世界の中で有力なカードであったとしても、被爆国である日本が核兵器を放棄するのは当然だと日本人は考えた。そうであるならば、原発過酷事故で多大な被害を被った日本が原発撤退を決断するのも、また自然のことではないか。私は政権選択後3年以内の原発0は、可能だと思う』(P238)
『私の生まれた町は宮城県の南部にある。4月半ばになると、町を流れる白石川の土手に並ぶ桜が咲き誇り、・・・実家の庭にはふきのとうやこごみが生え、・・・・秋には山ブドウが実をつける。帰省したときに我が家の実りを味わうのが私の楽しみだった。しかし、もう私が生きている間は、庭の恵みを味わうことはないだろう』
『原発事故は天災ではない。人災なのだ。人災だからこそ、決して二度と繰り返してはならない。その思いをともにする新しい代表たちを見つけ出し、日本人が営々と引き継いできた健康に人が住める国土を、私たちも子供たちに引き継いでいこう』(P238~239より抜粋)

ぜひぜひぜひぜひ、
選挙の前にこの本を読んでください、
ということを再度お伝えしておきます。
一日かそこらで読めると思います。

石原良純さんは、グレートリセットなんてありえないのだ、ということを知ることが大事だ、とおっしゃっていました。
杉村太蔵さんは、議員定数を減らすとか、歳費をカットするとか、そぉ~んなことぜっっったいにできるわけがない、と叫んでいました。

『国会議員が対象者(歳費削減の踏み絵の対象者)として何より重要なのは、官僚支配を打破できるのは国会議員しかいないという点である。官僚たちと正面から対峙でき、政治主導を実現できる人材にふさわしい給与。それは高額であってはかえってよくない。逆に必要最低限であることが人材発掘の要なのである』(P68)
結局のところ、これ、ではないでしょうか。

お給料も、宿舎も、まずは、国会議員が改革をしてこそ、官僚の改革もできます。逆に言えば、国会議員の役得はそのままで、官僚に変革を求めたところで、誰も納得しないでしょう。
あんたたちだってできないだろう、いい思いしたいでしょう、次も当選したいでしょう、と足元を見られているのが、現状です。

政治家、というものの存在意義を、心底、考え直していただきたいと思います。
いや、凝り固まった保身の考えを直すのは無理でしょうから、志の高い、改革に意欲のある、それこそ命をかけることのできる人に政治家として当選していただきたものです。

そして、私たち国民は、自分の一票を、大切に行使していきましょう。

それから、難しくて分からない、不信感増すよね、というような感想は使わないようにしましょう。
これは、官僚と政治屋の思う壺ですので。

今、総裁選だの代表選だので、自民党も民主党もお忙しそうですが、なんとも、生き生きとした皆様のお姿、お顔でしょうか。ほんとに嬉しそうですね、どなたも。
こんなことを楽しむために、あなたがたに、国民は高いお給料を差し上げているわけではないのです。

こんなことが大好きなんだぁ。ふ~ん。へんなのぉ~。
小学生に戻って、学級委員長選出ごっこばっかりやっててください。どうぞ。
あ~、小学生に失礼だよぉ。

『私は、2011年夏の全マスコミを挙げた菅首相バッシングに違和感を持ち、その不自然さについてモーニングバードでも言及した。しかし、私のような意見は例外の例外で、最終的に菅首相は辞任に追い込まれた。これは、政官業プラス一部マスコミのプロパガンダの結果であり、世論誘導が成功した事例だと、私は考えている。まんまとメディアは原発推進派の術中にはまったのである』(P207)

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「THE ROLA!!」 [書物]

みてみて~[揺れるハート]

買っちゃったぁ~。
と~っても楽しい本だよぉ~。

私が、タレントさんの本を真剣に手にするなど、自分で自分が信じられません。
細かい文字も全て読み、写真のひとつひとつもちゃんとチェックして。
時間をうっかり忘れて、本のページを捲っていましたぁ~。。。。。
バッチリ真剣、夢中で。
なになに?と一瞬自分を疑いましたが、とっても嬉しい気分でした。

真ん中あたりのページに、「笑っていいとも」のセットのなかにいるローラ、が載っているの。なんか、いい感じ~。

正直言って、今年の4月、「笑っていいとも」の火曜日レギュラーにローラが決まった、ということを聞いたとき、え~、って思ったの。
どうなるんだろう、この人って。
心配と、それから好奇心もあったかな。ごめんね、ローラ。

でも、だんだんと、ローラという人のすごさが分かってきた。
そして、「ホンマでっか!?TV」がきわめつけだった。
この人、すごい人だ、天才かも、って。
それから、だぁ~い好きになった。
ローラの楽しいポジティブ発言を聞きたくて、出演番組を捜したぁ。
twitterもフォローして、ブログも見てる。

あ、私のローラへの気持ちは、ここで他にも記事にしてるので、捜して読んでね。

ローラ憧れの藤岡弘、さんとの対談は、ちょっといただけなかった。
ごめんね。ローラ。
映像で見るときっと楽しいと思う。
文字に起こされていると、昔の芸能雑誌の対談(ほとんどが作られていたらしいけど)を思い出して、ちょっと変だったぁ。

その他の構成は、good!
ローラの喋り口調も、よく再現されているよ。

ローラんち、ステキだね。
家具が、もう、私好み!
へえ、エクセレンテ東京ってとこで揃えられるんだぁ。
こんど、私も、そこで買お~っと。
すっごくステキ。
カーテンは、モンルーベ、か。
ふ~ん。いいね、と~っても。

みんなも、ぜひ、みてみて~。
じゃぁねぇ。
今日も一日、がんばろうっと。
おっけ~ぃ。ばいばぁ~い。

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「采配」 [書物]

落合博満著(ダイヤモンド社)

昨年まで、プロ野球、中日ドラゴンズの監督だった、落合さんの書かれた本です。
8年間で、優勝4回。日本一1回。2位が3回。3位が1回。というすばらしい成績です。

私自身は、落合監督の選手時代については、よく存じ上げておりません。お名前は知っています。落合さんよりもむしろ、奥様のほうが、よくテレビでお見かけしていた時期があったでしょうか。豪快で、テキパキとした、判断力に富んだ奥様だった、と記憶しています。

私自身は、息子の影響でドラゴンズにファンになり、ファンになってほとんどすぐ、監督が落合さんに変わりましたので、いつも優勝しているドラゴンズ、といった印象です。

さてさて、この本を読みまして、いささか驚きを隠せません。
落合監督が、こんなに緻密な思考をお持ちの方だったとは。。。

世間では、どちらかと言いますと、落合さんへの人物評価として否定的なものが多く、嫌われているかのような雰囲気さえあります。
確かに、朴訥としていて、物静か。人付き合いが良くて明るくて優しい人、ではないと思われます。
が、その内面は、やはり、これだけの成果を残す人です、表には出さないけれど、しっかりとした自論と意志の強さをお持ちなのだな、と理解できました。

内容は、66の項目に分かれていて、つまり、66の箴言が書かれています。
サッカーの長谷部選手の「心を整える」と似た雰囲気の手法ですが、そこから受ける印象は、いささか違います。
どちらも精神論、啓蒙、啓発の言葉とエピソードですが、それは、簡単に言いますと、監督と選手の違い、でしょうか。長谷部選手の方はより瞑想的、落合監督はより行動的、かもしれません。

ご自身の選手時代のことも含めて、どうやって勝負に勝ってきたか、が、とても説得力高く、書かれています。
ビジネスマンとの比較や今の社会にも触れつつ語る場面もあります。
そのどれもが、あらゆる立場の人々へのメッセージとなっています。社会のなかで、自分自身をどう持っていくか、夢を叶えようとするときの心持ち、迷っているときの心持ち、決断するとき、人と接するとき、自分は何なのか・・・などなどへの、分析的アドバイスです。

落合さんは、セルフ・プロデュースの大切さを書かれています。
私は、こちらでセルフ・ルネサンスの大切さを呼びかけています。
落合さんのおっしゃるセルフ・プロデュースも、本来の自分自身を知る、ということだと受け取らせていただきました。
セルフ・ルネサンスは、本来の自分を見失って身動きが取れないなどのときに、心やこれまでの経験を見つめて、本来の自分を浮かび上がらせるワークです。
セルフ・プロデュースはむしろ、本来の自分を見つけている最中の心の態度、と言えましょうか。

今の政治家たちにも、読んで肝に銘じてもらいたい、といった言葉も、何度も出てきます。

『監督がひとつの方向性を明確に示さなければ、チームは動きようがない』
『バッティングに関するアドバイスも、もしかしたら、ある選手には私の考え方ではなく、コーチの考えたものが合っているかもしれない。だからといって監督やコーチがすべて自分の考え方で指導をしていたら、選手は混乱してしまうだろう。
そこで、あえて私はこう説明している。
現役時代に残した数字で私を上回っている者は、ドラゴンズには誰もいない。ならば、私が提示する考え方でやってもらうしかない。
自慢でも強健発動でもない。あくまで「監督のやり方」に納得してもらうための「方便」である。
もちろん、コーチたちとのコミュニケーションは十分に取り、私がコーチの提案を受け入れないということはない』(P268~269)
これは、リーダーと言われる役柄の心構えと覚悟、と言えるかと思います。
昨日のこちらの記事で、橋下大阪市長について書かせていただきましたが、まさに、橋下氏のおっしゃる「選挙で勝たせてもらった立場」です。なんでそんなにどんどん決めるんだ、と突っ掛かってくる人たちに納得してもらうその根拠としての、選挙で勝った、なのでしょう。
スポーツの場合には、民主主義を振りかざして抵抗してくる人は、さすがにいないでしょうが。

余談になりますが、政治、行政の世界では、民主主義があしかせになる、という現象が今起きています。民主主義の使いどころが間違っているのです。ゆえに、何も前に進まない、というのが、今の日本、なのではないでしょうか。
誰も勝負していないのです。責任を取りたくないから。

ドラゴンズファン、野球ファンには、選手の実名でのエピソードなど嬉しい情報もありますので、興味深く読めると思います。

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「文明の子」 [書物]

太田光著(ダイヤモンド社)

前作「マボロシの鳥」と全く同じ雰囲気の書物だ。

著者にとって、鳥、は永遠のテーマなのだろうか。
そして、鳥は、翼を持つもの、つまり、天使、ということなのか。

読み始めは、なんか一度読んだ読んだことがあるような・・・と、マボロシの鳥を引っ張り出したりなどしながら、また短編の集まりか、などと文句を言いそうになりつつ、・・・。
読み進めていくと、なんと、これがすごい。
思わず知らず、引き込まれて、そして、最後の短編まで一気に読み進む。
そして、どれどれ、と、また、第一編目を読み返す。どうしてもそうしなければならないのだ。
読んだ人には分かると思う。

爆笑問題の太田さん、あなたは、すごい!
これが私の読後感です。

爆笑問題の漫才のなかに、時事ネタがある。
以前放送されていた、日本テレビ「太田光の私が総理大臣になったら・・・秘書田中」では、数々の問題提起をし、政治家らを相手に、過激な意見、否、世の中をよくするための本音発言、を熱弁をしてきた太田さん。

「文明の子」は、小説という形をとった、戦後日本の文明への警告でもある、と言っても過言ではない。

ところどころに、時事ネタ風のエピソードが出てくる。
私も何度か、こちらのサイトで書いている、あなたとは違うんです、の、客観視できます発言、また、女性は子どもを産む機械だ発言、など。
実は、この、子どもを産む機械だ発言が、この作品に大きく影響してくる。
詳しくは言えません。ぜひ、読んでください。

政治家たちの悪知恵、そして、日本が辿って来た道、と、未来。

太田さんは、その仕組みをご存知なのか、それとも何となくなのか、あるいは、元々彼のなかにある魂の真実が、ついに隠せずに滲み出てしまったのか、いずれにせよ、ここに描かれていることは、宇宙の法則そのものだ。
思いが全てを創っていること、願ったり、思ったりしなければ、何も始まらないこと。

「ネバーエンディングストーリー」と、原理的に同質の匂いがある。
今、人々は、思いの力を失いつつある。
次の始まりの前に「名前」をつける、という場面もそうだ。名前を付ける作業は人間にしかできない。
最後、バスティアンの手のなかにあったのは、光、だったが、ここでは、・・・。
そこからまた始まる世界。
そこを破って出てくる様子は、まさにそれ。ヘッセの「デミアン」をも喚起させる。

悪い人がひとりも出て来ない、と先日ラジオで言っていた。その通りだ。
ジョン・レノンを暗殺した人物さえ・・・。

賞狙いで書いた。前回は水嶋ヒロにもってかれた、今回は、浅田真央が降りてくれて助かった(どちらもポプラ社)、と思ったら、芥川賞の田中何某が出てきた。
と冗談めかして言う太田さん。
相方の田中さんも絶賛しているように、直木賞を取ってもおかしくないと、私は、個人的に思う。
文章がどうのとか、手法がどうの、とか、思想的にどうの、とか、いわゆる専門家のこだわりでは、色々とマイナス点もあるかもしれないが、すでに時代は動いているのだ。
この小説のように。

太田さんも言っていたが、日本文学は自分のことしか考えていない、と。
直木賞はともかく、芥川賞の意義は、すでに失われているような気がしないでもない。
そもそも、芥川龍之介の作品は、もっと、人の心の真実をついて、ピュアを引き出すものではなかったか?

そろそろ文芸の世界も、新しい扉を開くときなのではないだろうか。
いや、本当は、文学こそ、思想なのであるから、時代の先頭を行ってもいいはずだ。

私の感想から、ある程度のイメージができあがってしまい、実際読んだら、ちょっと違うぞ、と思う御仁もおられるやもしれないが、それはそれ、ということで。。。

「文明の子」ぜひ、ご一読を。

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「父・金正日と私」 [書物]

五味洋治著(文藝春秋)

金正男独占告白
インタビュー7時間+メール150通
とある。

著者と正男氏の対話から窺い知る、独裁者である父の息子は、非常に紳士で、簡単に言えば、いい人、だ。
しっかりとした教育を受けた、頭の良い、広い視野と国際的な感覚を持つ人、という印象である。

昨今、時折りニュースで流れていた、正男氏の短いインタビュー映像から、すでに、彼の誠実で穏やかな雰囲気は伝えられていたので、それほど驚くには値しないが、それでも、尚、彼の人柄の良さを評価しないわけにはいかない。

もちろん、どのようにも解釈できる。
これは、表向きであって、その実情は分からない、と判断することもできる。

北朝鮮で金正日氏に会った人は、一様に、いい人だった、と言う。
明るくて、パワーがあって、と。
すぐさま、独裁者はやりたい放題なのだからパワーがあって生き生きしているのは当たり前、と反論する評論家もいる。
一方、明るい人だった、という感想は、むしろこちら側の偏見によるものだろう。つまり、北朝鮮は、否、独裁国家は、独裁者は、暗く、陰気で、怖い、という自由国家の人々が持つイメージを裏切るものだからだ。

この書物のなかにいる正男氏が、偽りだと疑ってもなお、それでも、ここまで、根気良く受け答えできるだろうか、という疑問が残る。
根気良く、というのは、著者から発せられる質問が、ジャーナリストの根性なのだろうが、とても執拗に見えるからだ。
メールにしても、インタビューにしても、差し支えが大きいと思われる内容は掲載していないだろうから、質問と答えの範囲は自ずと限られてはくるだろう。
それにしても、同じ質問を何度も繰り返されては、その身に自分を置き換えてみたとき、それにはもうお答えしましたよ、と言いたくなるのが人情だ。マスコミ人の、根掘り葉掘り聞き出そうとする、あの芸能人を追っかけて詰め寄るいやらしさすら漂う気質のようなものに出会っては、ときに苛立っても不思議はない。
一方、正男氏も、ひとつの質問に対して、その全てを答えているわけでもないだろうから、質問する側も、何とか本音、あるいは新しい答え、あるいは行間を埋めるもの、がポロっと出てくることを期待して質問しているのだろう。

正男氏が、母国の自由・開放を望んでいることは確かなようだ。
もし彼が、北朝鮮のリーダーになるようなことがあったなら、それは実現するだろうか。
いや、分からない。人はどうにでも豹変するものだ。
いや、豹変より何より、この教養深い人物像は偽装なのだから、それを豹変とは言わない、と言うだろうか。

いずれにせよ、この執拗にも繰り返される質問に真摯に返事を送信する姿、著者と待ち合わせてインタビュー、会食をする姿は、良い印象だ。
日本の放射能汚染や、世界の環境問題にも思いを致している様子は、情報を得て思索し判断する能力の誠実さが伺える。
とてもニュートラルに、韓国、日本、アメリカと北朝鮮のことを捉えていると思わせる、そうした発言もある。

拉致被害者の方々が、日本へ帰ってくることができるためにも、彼の存在は大きいかもしれない。
彼の弟がリーダーとなった新しい国家と、正常な交流ができるようにもしなれば、それで良いのであるが、もし上手くいかないときは、また、何か変化を来たすような出来事でもあったときは、この自由感覚に優れた正男氏の動向に期待したいところだ。

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「日本が聞こえる」① [書物]

さだまさし著(講談社文庫)

歌手さだまさしさんは、日本の原風景を背負って立つ人、といったイメージもありましょうか。
であるがゆえに、日本について憂えておられる様子は、NHKの番組からも分かります。また、そのような書物も出版しておられました。
穏やかそうな方ではありますが、意外と厳しいご意見をおっしゃる方でもあるのです。

この文庫本の内容は、毎日新聞に連載されていたエッセイで、1995年8月から1997年12月までのものからの抜粋です。
今読んでみまして、なんとも全くドンぴしゃりの内容が書かれていること驚きました。

「今年は大変な年になった」という表現は、1995年の記事に、何度か出てきます。
「阪神淡路大震災にはじまり、地下鉄サリン事件、いじめの果ての少年少女の自殺、フランスの核実験、銃、暗殺」
「戦後50年の節目というわりには、誰もそのことの議論もしない」

「政治というものに、もっと気高いものや、滅私という幻想を抱いていた。政治とは、人を幸せにするための共同作業で、政治家とは、純粋な遂行者であってほしいという夢想を捨てられないできた。そんな基本的な事柄が忘れ去れたような気がしてね。住専で何千億円だとか言っているうちにみぃんな生活の基本を見失っちまった気がしてね」
「新党は勢いがあって良さそうな感じだが、よく考えてみると、コップのなかをかき回してるようでもあるし、イメージだけで話されてもなぁ、どこか伝わって来ないよな。さきがけが分裂して社民党が解体して、新進党がぼやーっとしてて、では」
「日本人はイメージ戦略に弱い。イメージなんぞは、個々が勝手に心の中に描く実体の無い幻想のようなものだから、そういうものに弱いというのは、想像力や創造力が欠如していることの証明なんだよな」
「選挙戦のひどいこと。投票する議員のことを何も知らずに、友達に頼まれた、団体の方針だから、と来るもんね。あげく、投票率の低いこと。危機感なんて感じていないのだろうか」
「このまんまじゃ、本当に終わっちまうぜ、この国」
「国政選挙である。棄権、は絶対に、反対票、にはならない。主権の放棄であるばかりか、多数派、への、賛成票、なのだ。こういう態度が、組織票、の横暴を許すうえに、浮動票なんて軽んじられる原因さ。無党派層なんて言われてよく平気だね。顔にマジックでアホと書かれるほど屈辱的なのに。棄権しておいて自分に不都合なことがあると政治の責任にするのは調子が良すぎるよ」
「物の本の記録が確かなら、小選挙区制は、ドブ板の上積み、すなわち地域偏重主義の金権につながって、70年前に廃止されたんじゃなかったっけ。ま、それを復活させたのが、のちに新進党になる細川政権だったのもわっははだが」
「保・保二大政党とか言ってるが、自民・新進・民主を合わせてごらん。おいおい、五百のうち四百近くは、もともと自民じゃねェか」
「厚生省のあの前事務次官を、僕は悪人と言い切れない、などと言い出すと非難の嵐にさらされる気がするのだけれど、やっぱり言う。では、あなたに、あの権限とポストを与えられたと仮定した時、ああならない、という自信が本当におありか。人は愚かで弱いものだ。保身と自己中心的幸福、と、名誉、をいっぺんに手にするチャンスが与えられた時、ささやきに抗することはできないかもしれない。
先日、青山通りで、僕の車の前をゆくラグジュアリー・カーのオーナードライバーとおぼしき中年の男性が、宮益坂信号で停車の際、火のついたタバコを、中央分離帯の生垣の上にぽん、と放った。ふと見ると生け垣の周りに空き缶やらティッシュやらが山になっている。かの前次官とこの中年との間に、何ら差は無い。こういうやつに限って世のうっぷんを、まことしやかに仲間内に吹聴しているのだ」
「夢物語を楽しんで元気が出るのはいいことだが、現実と夢を都合よく合体させて逃避するムードがある。これが怖いね。ウルトラマンは災害は防いでくれないし、戦争も止めてくれない。都議選の投票率を持ち出すまでもないが、日本国民の危機感の無さは異常だ」
「一億総白痴化、とは、大宅壮一の鮮やかな予言だった」
「個人主義と利己主義がごっちゃになったように、親切と不親切がごっちゃになっている国」
「こり固まったナショナリズムや民族主義、また宗教国家の危険性は、行き過ぎる反動性(ファッショ)にある。ただ、それらを警戒し過ぎる余りに、その国という単位がアイデンティティを失うケースがある。現代日本がいい例だ。この国に生まれ、或いは生活をする意義も、感謝も失われ、誤った自由主義の解釈から、個人主義も逸脱した利己主義の台頭する現代日本を想う」

どうでしょう。
これは15年も前のエッセイです。
このころ生まれた子供は、もう高校生。幼稚園へ通っていた子はすでに成人です。
この国は、何も変わることなく、ふたたび、今、2011年の12月になって、
「今年は大変な年になった」
と言っているのです。
世のなかの出来事、事件、政治について、また、人々の心の退廃についても、まるで、今現在のことのような錯覚を受けます。

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『あなた自身の社会』スウェーデンの中学教科書 [書物]

アーネ・リンドクウィスト/ヤン・ウェステル著/川上邦夫訳(新評論)

少し前に話題になった書物です。
スウェーデンのコミューンについて学んでいた、訳者である川上氏が、この社会科の教科書に出会い、いたく感動して、ぜひ多くの日本人に知ってほしいと翻訳したことにより、今、こうして、私たちが、このすばらしい教科書に触れることができています。

教科書全体が、日本の教科書にはない構成、内容です。
生徒たちが考えるように導かれますし、単元ごとに提示される質問には、答え、がありません。
私は、日本人の悲しい習性で、本の後ろほうまでひっくり返して、解答を捜してしまいました。
これが正解です、という強制的誘導がないぶん、指導する教師の力量が問われるでしょうが、生徒のほうは、制限のかからない、自由な感覚を得ることができると感じます。
もちろん、方向性はありましょう。犯罪についての章では、犯罪は良いこと、という意見を述べることがどういうことなのか、は分かると思います。
しかし、社会のなかで、どのような仕組みを心地よいと感じるかどうか、何を要望したいか、は、それぞれ意見が違うはずです。

川上氏の注目点を次に述べます。(Pⅱ~ⅲ)
①実社会への手引きとなっている
②社会的存在の人間に、さまざまな角度から光を当てている
③積極的な姿勢が貫かれている
④子どもたちが自分自身の意見をもつことを徹底して奨励している
⑤社会は自分たちの手で変革できることを教えている
スェーデン文部省発行の1994年学習指導要領に、
学校の任務は「生徒に、将来を築くという困難な事業への楽観的な展望を与えること」
とあります。

なぜ、この書物をここでご紹介しているのでしょう。
前回までのスピリチュアル記事、あるいは、これまでのいくつかの記事を通して、日本人の変革ということについて書かせていただきました(これからも書きます)。
この教科書は、まさにそれ、変革のための教科書、私たち日本人には教えられていない社会科、だからです。

とくに民主主義の章は、これは知っておかなければいけません。
知らないがゆえに、私たちは、何もできないのです。

以下、抜粋します。
7・・・コミューンにおける民主主義
●影響を与えるいろいろな方法
あなたは満18歳になると、住んでいるコミューンの選挙で「投票する」ことができるようになります。
投票できると同時に、あなたは「選挙される」こともできます。
私たちはコミューンの政治にいかにして影響を与えることができるのでしょう。
「新聞に投書しよう!」
「地元のラジオで喋るよう努力しよう!」
「政治家と連絡を取って個人的に話し合ってみよう!」
このような方法は一部の人にはぴったりかもしれませんが、多くの人々は他の方法を取ります。
人は1人では無力です。何かに影響を与えたいとき、成功を勝ち取るのは他の人々と一緒にやるときです。
多くの人々が集まりデモをすれば、統治者はより真剣に耳を傾けようとしますし、マスメディアのより大きな関心も引き付けることになります。
しかし、どんなことでも、行動さえ起こせば欲しいものが手に入るというわけではありません。学校給食についての行動で、生徒たちは要求した全てに支持を得たわけではありません(前章で、給食改善に関して生徒たちがどのような行動を起こしたかについて書かれています)。しかし、それは関心を呼び起こし、部分的ながら前進につながったのです。さらに新たな試みをすれば、さらに大きな前進が得られるでしょう。(P130~134)

選挙で政治家を選ぶこと
自分も選挙に立候補できること
投書すること
発信すること
政治家と話すこと
権利としてのデモ

こういったことがあることは、もちろん、私たちも知っていますが、中学校や高校で、それらを、自分自身でできるのだ、行動していいのだ、行動することが権利なのだ、ということを積極的に教育されません。
どちらかというと受け身で、偉い人たちが仕切っているので、それらに従いなさい、という刷り込みさえ与えかねないような内容ではないでしょうか。
もちろん、そんななかからも、政治家を志したりする人は現れますし、職業として選択する政治に興味を抱く人もいましょう。ときに野望の人もおられるでしょう。あるいは、そのほとんどは、世襲かもしれません。

そもそも日本の民主主義は民主主義とは言いがたいものがあります。
これからの時代は、〇〇主義、という時代ではないということもありましょうが、あえて民主主義ということに言及しますなら、今の日本では、勝ち取った民主主義と与えられた民主主義の差は大きいと言わざるを得ません。

日本はデモのできない国だ、と言って帰国された海外の方も、先だって、おられたようです。

原子力は安全だ、としか書いていなかった日本の教科書です。
いかに政治的意図、圧力が働いているか、私たちは、震災と原発事故によって、ようやく分かってきました。

ミルカさんもおしゃっていました。
『国民は、圧力で政治を変えることができます』
『日本国家は、国民に義務ではなく、権利を与えることができるはずなので、国民は、保障、権利を訴えないといけません』
『福島の原発事故では、彼らのためにできることがあったはずです。ストライキをして圧力をかけたりすべきでした』

余談ですが、まさにチェコは、勝ち取った民主主義、ですね。

気づいた人たちで、声を上げていきましょう!
また、子育て中のお母様方は、ぜひ、この教科書を、この教科書の内容を、ご自分のお子様に伝えてあげてください。

最後に、この書物が一躍有名になったきっかけである「詩」を載せさせていただきます。
P154~155、子どもと家族、の項目にあります。
皇太子殿下が、45歳のお誕生日の記者会見で、愛子様の子育てについて触れられた際、朗読されたことで、多く世間に知れ渡りました。
余談ですが、以前に、インディアンの教え、というものが流行ったことがありましたが、その真理と相通ずるものがあるかと感じます。
両親、とくに母親の役割は、偉大です。

「子供」ドロシー・ロー・ノルト

批判ばかりされた 子どもは
非難することを おぼえる

殴られて大きくなった 子どもは
力にたよることを おぼえる

笑いものにされた 子どもは
鈍い良心の もちぬしとなる

しかし、激励をうけた 子どもは
自信を おぼえる

寛容にであった 子どもは
忍耐を おぼえる

賞賛をうけた 子どもは
評価することを おぼえる

フェアプレーを経験した 子どもは
公正を おぼえる

友情を知る 子どもは
親切を おぼえる

安心を経験した 子どもは
信頼を おぼえる

可愛がられ 抱きしめられた 子どもは
世界中の愛情を 感じとることを おぼえる

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「日本中枢の崩壊」+バシャールメッセージ [書物]

古賀茂明著(講談社)

すでに皆様ご承知のとおり、著者は、元官僚、改革派であるゆえに、つい先日、退官させられた有志です。

内容については、ここであれこれ申しません。
まだ手に取られたことのない方には、ぜひ、ご一読をお薦めします。

日本がどうやって動かされてきて、一体彼らは、何をやらかしているのか、が、よく分かります。

古賀氏の友人の「あの人たち東大出てるんですよね?」という皮肉のこもった疑問は、今、日本中の多くの人々が感じていることではないでしょうか。

ここに、バシャールからの日本人へのメッセージをお知らせします。

完全版 日本へのメッセージ 前編
http://www.youtube.com/watch?v=VzQwp0wI7Lk&feature=related

後編 日本へのメッセージ 完全版 バシャール
http://www.youtube.com/watch?v=fZZLTy3jeDE&feature=related

災した子供たち 日本への招聘 バシャール
http://www.youtube.com/watch?v=H35ZpaNbD3A

被曝の治癒 バシャール 
http://www.youtube.com/watch?v=iNKX-JA5I7I 

こうして、日本語訳つきで公開してくださることを、投稿者の方に感謝します。

私も、こちらのサイトにて、日本人のネガティブ性について、それとなく書かせていただいています。
こうして、はっきりと言っていただくことで、目が覚める方もおられることでしょう。
と同時に、反発心の湧く方もおられるでしょう。

いずれにせよ、すでに変容は加速しており、そちらの電車に乗るのか乗らないのかは、あなた次第、私次第です。

今、政治家や官僚、マスコミの人たちをテレビ画面で拝見しておりますと、何とも愚かすぎて、とても気分が悪くなります。
自分の地位のこととお金のことしか考えていません。
これはずっと、戦後だけをとってみてもそうでしたが、ここまで発展してきたのにも、何か意味があるのでしょう。
良かったのか、悪かったのか、このような状態の今となりましては、評価しかねるところです。

民主党に政権交代したとき、世界は、期待しました。日本が変革を始めたぞ、と。日本人も、期待していました。
しかし、何も起きませんでした。
変革しようとする人は、その足を引っ張られて退場していきました。

「日本中枢の崩壊」はすなわち「日本崩壊」です。

このままではいけない、と思う私たちは、声を上げていきましょう。
あるいは、思いを強く持ちましょう。


天皇陛下の早いご快復をお祈りいたします。

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『「ローラ」と呼ばれて』 [書物]

メリッサ・ギルバート著(ワニブックス)

1974~83年にわたって、9シーズンが放映されたアメリカTVドラマ「大草原の小さな家」の、ローラ役、子役大スターだった、メリッサ・ギルバートの半生です。

「大草原の小さな家」は、ローラ・インガルス・ワイルダーが、西部開拓時代のアメリカを舞台に、その子供時代を思い出して綴った物語です。
そのローラ役に抜擢されたのが、このメリッサ・ギルバートです。

「大草原の小さな家」ファンにとっては、いささか、こんなエピソードは聞きたくなかった、といったような内容まで正直に書かれていて、夢が砕かれる気分になった方も少なからずいるのでは、と想像します。
シリーズ内での、役者たちとの関係や、メリッサ・ギルバートの思いや感想は、ちょっと意外、に近いかもしれません。

また、ハリウッドというスターたちの交流の場、仕事の様子については、暴露本的要素も含まれていて、彼女の私生活には、ショックを受けた純真な「大草原」ファンもいることでしょう。

彼女が、幼いころからオーディションを受け、役を勝ち取りこなしていく姿、「大草原」の撮影での思い出のエピソードなどは、なかなかやはり、メリッサ・ギルバートは、天才子役だったのだな、と、認めるしかありません。

大人相手に、自分がどうすれば、彼らを喜ばせるか、気に入られるか、を、しっかりと心得て行動していたということを自認し、告白しているところなど、狡賢い子供という印象より、やはり天才、というひと言がぴったりきます。そんな子供時代の内面を、45歳の女優として、大きな息子が4人もいるひとりの母として、振り返って語ることのできる大人の彼女も、子役時代同様、天才と言えるのかもしれません。

メリッサ・ギルバートは、「大草原」以後は、日本ではあまり注目もされず、同じ子役仲間で友人のジョディ・フォスターと較べれば、ばっとした活躍もないような印象でした。
メリッサ・ギルバートは、映画の仕事よりも、テレビドラマや舞台の仕事を多くこなしていたようです。
2001年に全米映画俳優組合代表の選挙に当選し、2005年までその大役を務めたという実績と経歴が、今では、女優の肩書きに加わっています。

もしかすると、途中で読むのを止めてしまった読者もいるかもしれません。
日本人にとっては、登場する俳優やプロデューサー、テレビ番組の名前など、馴染みのない物の方が多く、それらが、事細かく書かれていますので。

しかし、最後まで読んでください。
彼女の言いたかったことは、これだったのだな、と感じるはずです。
この体験があったがゆえに、この自伝を書こうと決意したのではないでしょうか。
2008年、ミュージカル「大草原の小さな家」に、母さん(キャロライン)役での出演に同意した、ローラ~メリッサ・ギルバート。
はじめは、「ローラ!」という呼びかけに反応していた彼女も、時の経過とともに、「キャロライン!」に自然と反応できるようになります。

彼女は、ずっと「ローラ」でした。子役大スターにありがちなこととはいえ、良くも悪くも、「ローラ」は、常に彼女につきまとっていました。

そして、彼女は、この劇のなかで、癒されていったのでしょう。
目の前に、ローラとその家族の様子を見ることで、テレビシリーズの当時を再体験したのです。

この舞台中、他の俳優たちとともに、ミネソタ州ウォールナット・グローブとサウス・ダコタ州デ・スメットを訪れ、ローラ・インガルス・ワイルダーが実際に住んでいた家や博物館を訪れます。これまで、何度も招待を受けて、一度も応じたことがなかったそうです。
そこで、彼女は、テレビシリーズで使われたセットに触れ、また、ワイルダーが使っていた品物に触れたりしました。
『少女時代の思い出が押し寄せてきた』とあります。

まさに「ローラ」とともに成長し生きてきた、と言っても過言ではないメリッサ・ギルバート、なのです。

『私は、「大草原」のオーディションから今に至るまでのすべてのこと~幸せ、悲しみ、心痛、そして愛~を思い起こしていた。私はあまりにも多くのことを感じていた。女優としての重みではなく、人生の重みを感じていた。それをこれからもっと感じるのを楽しみにしている』

すでに子役として活躍していたメリッサ・ギルバート。あるとき、どうしてもやりたかった役のオーディションに、最終審査で落ちてしまいました。
父親に泣きながら胸の内をぶちまけたとき、彼は言いました。「それはね、次はもっと良いことが起きるっていうことなんだよ」と。
その直後、本当に、もっと良いことが起こりました。
彼女は、世界中から愛される「ローラ」となったのです。

メリッサ・ギルバートが、円熟味を増した女優として出演するドラマを、日本でも見ることができる日を、楽しみにしています。

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